<栗鼠の鳥篭、あるいは魔女の繭玉>
「にしし……じゃあ、またな。」
そう言って電話を切ってぐい、と伸びをしていると背後から声が飛んでくる。
「なぁ、今誰と電話してたんだ?」
「んん……あぁ、元彼?」
伸びをしたまましれっとそう返すと、ガタタッ!と何かを踏み外すような音がして振り返る。
退役軍人だった彼の祖父の血を感じさせる長い手足に厚めの唇、そしてなにより黒みを帯びた肌を持つ男。
西門 倫三(さいもん りんぞう)が慌てたようにこちらを向いてその厚めの唇を開いた。
「待て裕二、元彼ってなんだオイ!」
「なんだも何も、だから元彼だって。……大丈夫、今向こうにゃ本命居るし。」
「お前はそれじゃ安心できない。」
そう言ってムスッとする倫三に思わずクスリと笑みを零す。流石探偵、良く俺を分かってる。
つかつかと近付いてきて、がばりと俺を抱きこんでまで主張するからまあ、若くて可愛いのは結構だが……
クォーターなのもあって長身な若者に、どちらかというと小柄な俺がすっぽりと納まる感覚は、悪くは無いが釈然ともしない気分になる。
「10年は前の話なんだがなぁ。」
「知るか、向こうに未練があるかもしれねぇだろ。」
「あ~、それは無い。」
「そんなの……」
「俺は『分かる』って、知ってるだろ?りんぞー?」
「うぐ……まあ、ならいい。」
と言いつつも、俺を離さずにそのままソファまで連れて行ってムスッとしたまま膝に乗せている。
なんともまあ、『読む』までもなく分かり易い意思表示だ。これならまだ15年前の「彼」の方がまだ取り繕っていた気もする。
「煙草吸うから、気をつけろよ。」
「ん?おう。」
己を抱きすくめた彼にそう一言断って、ポケットの煙草から1本取り出し、火をつける。
バニラが混じった紫煙がふわりと繭のように己の目の前を漂うのを見て、なんとはなしに昔を思い返した。
====================
「俺」こと神代 裕二(かみしろ ゆうじ)が「彼」……藤井 陽(フジイ アキラ)と出会ったのは15年程前、俺が25で、彼が30の時だった。
当時からいわゆる「夜遊び」に耽っていた俺が彼に会ったのは、最初は店員として働いている祖母の喫茶店。
客としてふらりとやってきた彼は一目見て分かるほどにズタボロだった。……見た目でなく『心』が、思わず二度見した。
まあ、俺でなくてもなんか元気が無いとは思うだろう。祖母ちゃんもなんとなく察して、何くれと初見の客だが世話を焼いて居たのを覚えている。
「ほい、ハーブティお待ちどうさま。」
「……ありがとう。」
そんなやりとりをした次に出会ったのは、その日の夜……まあ、有体に言うと「発展場」としてそれなりにお仲間同士では知れている夜の公園をぶらりと散歩していたのだが、そこに彼は居た。
ぼんやりと、ベンチに腰掛けて街灯の明かりを眺めている彼を見付けた時は、正直ちょっと驚いた。と同時に心配になった。あれは良くない、昼間のようにズタボロのままなら、悪いものを引き寄せる。
ちょうど、下心丸出しで彼に声をかけようと近付いてくる気配があったので、先んじて声を投げると、彼はこちらを向いて少しばかり、目を見開いた。
「ごきげんよう、お昼ぶり?」
「え?あ……君は、昼間の?」
「そそ、喫茶店の店員ですよ、っと……ここ、知る人は知るアブない場所なんだけど、分かって……は、いそうだぁね。」
「あぁ、その……少し、独りで寝るのが寂しくて……ね。」
「ふむ……でも、実際『寝る』のは怖い、って感じか?」
「え、っ!?」
膝に落ちた視線が、俺のかけた言葉でガバッ、と驚いたようにこちらを向く。どうして分かった、と言わんばかりの顔だ。
「何、で……。」
「きっとお兄さんが分かり易いだけだぁね。……まあだからさ、俺も独り寝は寂しいのよ、今晩付き合ってくれねぇかい?」
「いや、でも……。」
「なぁに、俺も気が変わってね……添い寝だけで構わねぇさ。」
ほんとを言うと物足りないが、まあそこは言わぬが華、だ。俺だってまあ、そこまで飢えては居ない……今のところは、まだ。
いぶかしむように俺を見る彼に……なんだか、暴力を受けて人間不信になった野良犬、あるいは羽が傷ついて飛べなくなって辺りを警戒している鳥を構っているような錯覚を覚える。
「……わかった、君がそこまで言うなら。」
「よしきた。まあ場所は適当にホテルでいいとして……そういやお兄さん、名前は?」
「……陽。藤井 陽だ。」
「あきら、か。 俺は神代 裕二、それじゃあまあ……よろしく?」
そんな一晩から、自然と俺達の「お付き合い」は始まった。
最初の数ヶ月は本当に添い寝だけで過ごした。眠れない日にふらりとやってくる彼がうなされ、しがみ付いてくるとその髪を梳き、背中を撫でるようにして一緒にまどろむと、彼は安心したように寝息を立てた。
半年を過ぎて、どちらともなく肌にじゃれるように触れ合うようになり、一年を過ぎた頃に彼から求められて体を重ねた。
その頃から俺を「子リスちゃん」なぞと気障ったらしく呼ぶようになったので小突いてやったが、一向に辞めないので諦めた。
「子リスちゃんは不思議だな。まるで魔法使いみたいだ。」
「また気障ったらしいことを仰る。それに陽、俺は魔法使いじゃねぇよ。」
「いやまあそうだろうけど。」
「どっちかっつーと魔女の端くれだ。」
「……魔女(witch)?」
「魔女(witch)。」
「……じゃあ、カラスとネコを飼っている君のお祖母さんは。」
「師匠だけど?」
「……なるほど。」
今は親戚の神社に住んでいて意外と信心深い彼は納得するのが早かった。素直なのは良いことだ。
しかし……男なのに魔女?と、心を読むまでもなく表情が語っていた。いいだろ、ほっとけ。
そんな「付き合って欲しい」とどちらが言った訳でもなく、ただただ寄り添うように一緒になったあの頃の俺達は一般的な「恋人」では無かったと思う。
喧嘩等を通じて価値観の差をぶつけ合って埋めようとすることもなく、俺はただ彼の望む時に、望むように彼と共に居た。少なくとも俺にはそれが出来たからだ。
その時の俺は、例えるなら彼にとって「止まり木」や「鳥篭」のようなものだった。傷ついた彼が癒えるまで、安全に休める場所……事実そんな感じだっただろう。
真綿や羽毛で包むように、ただただ安穏と穏やかに、引き裂かれた心の傷に悪夢が巣食わぬよう、上っ面にでも塞がるまで……あの時の彼には、それが必要だった。
もちろん、俺だけが彼の癒しというわけでもなかったろう。一緒にすごす彼からは、親の話は全くといって良い程出なかったが、親戚の神社にお世話になっていて、そこに居る双子のような甥と姪(正確には従姉妹の子らしい)の話は良く出てきた。
別れるまでにはデートもセックスも何度もしたし、俺たちは互いを大事にしてきたと思うが……彼も、なんとなく理解していたのだろう。彼は何時かここから離れ、俺はそれを止めないのだと。
だから彼は俺が夜遊びを辞めないの事に、自分が居るのにと拗ねたりはするが本気で咎める事はしなかったし、彼と体を重ねるようになった頃から少しずつアメリカと日本を行き来しだすのを俺も止めるなんてことはしなかった。
引き止める努力をしていない、と言う奴も居るかもしれないが、そもそも必要ない事をする気はなかった。だって彼の心は、彼の魂はずっと海を越えた彼の地に、傷つきながらも惹かれていたのだから。
そして途切れ途切れにでも2年を共にすごして3年目に差し掛かかったかな、といった頃……彼がそっと話を切り出した。
ちょうど俺が作ったクッキーと、俺が淹れたハーブティを二人でお腹に片づけた後……腹ごなしの散歩にでも誘うようなタイミングで。
「裕二、俺……アメリカに戻ろうと思う。」
「ん……そっか。……もう、大丈夫なのかい?」
そう聞きはしたけども、俺は半ば確信していた。だって彼は言ったのだから、「行く」ではなく「戻る」と。
そして、彼は俺が思った通りの言葉を返した。
「あぁ。……裕二、ありがとう。」
「俺は一緒に居ただけだがね。……まあ、どういたしまして。」
「君が居なかったら、俺はあのまま駄目になってたかもしれない……だから、君のおかげだ。俺の子リスちゃん。」
「俺の、じゃもうなくなるだろ?」
「ははっ、手厳しいな……来週、アメリカに発つつもりだ。」
「そっか、元気でやれよ?」
「あぁ……さようなら、ユージ。」
まるで意識してイントネーションを変えたように俺を呼ぶ彼に、俺はあぁ……と納得の声が出た。彼に必要だったのは、これだったのか。
「藤井 陽」から「フジイ アキラ」へ……傷ついた心と体を溶かすように見詰めなおして、彼の望む形になるまでの「繭」……きっとそれが俺だったのだろう。
そこまで考えて、俺の言葉も十分に気障ったらしいなと今更ながら気付いたが、まあ俺は彼のように外におおっぴろげに出す訳でもないし、旧い魔女の言葉が詩的でないはずもない……と思う事にした。
あの時の彼を鳥と表現すべきか、蝶と表現すべきかは正直今でも決めかねている。まあそもアイツはそんな華やかでもないし、本当は虫でも鳥でもなく人なのだから。
「ん……さようなら、アキラ。」
申し訳なさそうな顔でこちらを見るものだから、俺も意識して呼ぶ声音を変えてやると、驚いたように目を見開いてから、彼は……フジイ アキラは嬉しそうに口元を綻ばせた。
そうして、触れるだけの軽いキスを交わした俺達の『関係』は、あっさりとそこで切れた。一緒にアメリカに来てくれだの、行かないで欲しいだの、そんな柵になるような言葉はお互いに一言も無かった。
薄情、というのとは少し違ったと思う。ただ、今の俺達はそうした方が良いと……お互いに留まる気もついていく気も無いと理解していただけ。
鍵の開いた鳥篭から、または内から開かれた繭から、怪我が癒えた彼が自分の本当の番と巣を求めて飛び出した……これはそれだけの話だ。
===================
「ぃ……ぉい、おいユージ!」
「……んぉ、どうした?」
「煙草、灰落ちるぞ。」
「おおっと、さんきゅ。」
火をつけたまま、一口吸っただけでぼんやりと物思いに耽っていたせいで、じりじりと燃え続けていた煙草が、今にも落ちそうになっていて慌てて灰皿に落とす。
ちょっともったいない事をした、とみみっちぃことを考えながらも煙草を咥え直すと、つむじの辺りに視線が刺さるのでそっと見上げる。
案の定、倫三が何か言いたげに俺を見下ろしていた。
「……何考えてたんだよ。」
「探偵なんだったら、推理してみたらどうだ?Mr.サイモン?」
他の奴から倫三と呼ばれるのを嫌がるのに、何故か俺が彼の望む呼び方をしてやると、キュッと不機嫌そうに眉根を寄せた。
「……さっき電話してた元彼とやらの事か?」
「おぉ、正解。ちょっと出会った時と、別れた時の事をなー。」
「なんだよ、やっぱ未練あるんじゃねぇか?」
「いんや、全然?まあ戻ってくるなら両手を広げて歓迎してやるけど……だってほら。」
ふっ、と紫煙を吐き出すと、もう根元まできていた煙草の火をジュ、と灰皿に押し付ける。
「自分で外に飛び出して、番を見つけて巣を作った鳥が、鳥篭に戻ってくるこたぁねぇだろう?」
<栗鼠の鳥篭、あるいは魔女の繭玉 END>
「にしし……じゃあ、またな。」
そう言って電話を切ってぐい、と伸びをしていると背後から声が飛んでくる。
「なぁ、今誰と電話してたんだ?」
「んん……あぁ、元彼?」
伸びをしたまましれっとそう返すと、ガタタッ!と何かを踏み外すような音がして振り返る。
退役軍人だった彼の祖父の血を感じさせる長い手足に厚めの唇、そしてなにより黒みを帯びた肌を持つ男。
西門 倫三(さいもん りんぞう)が慌てたようにこちらを向いてその厚めの唇を開いた。
「待て裕二、元彼ってなんだオイ!」
「なんだも何も、だから元彼だって。……大丈夫、今向こうにゃ本命居るし。」
「お前はそれじゃ安心できない。」
そう言ってムスッとする倫三に思わずクスリと笑みを零す。流石探偵、良く俺を分かってる。
つかつかと近付いてきて、がばりと俺を抱きこんでまで主張するからまあ、若くて可愛いのは結構だが……
クォーターなのもあって長身な若者に、どちらかというと小柄な俺がすっぽりと納まる感覚は、悪くは無いが釈然ともしない気分になる。
「10年は前の話なんだがなぁ。」
「知るか、向こうに未練があるかもしれねぇだろ。」
「あ~、それは無い。」
「そんなの……」
「俺は『分かる』って、知ってるだろ?りんぞー?」
「うぐ……まあ、ならいい。」
と言いつつも、俺を離さずにそのままソファまで連れて行ってムスッとしたまま膝に乗せている。
なんともまあ、『読む』までもなく分かり易い意思表示だ。これならまだ15年前の「彼」の方がまだ取り繕っていた気もする。
「煙草吸うから、気をつけろよ。」
「ん?おう。」
己を抱きすくめた彼にそう一言断って、ポケットの煙草から1本取り出し、火をつける。
バニラが混じった紫煙がふわりと繭のように己の目の前を漂うのを見て、なんとはなしに昔を思い返した。
====================
「俺」こと神代 裕二(かみしろ ゆうじ)が「彼」……藤井 陽(フジイ アキラ)と出会ったのは15年程前、俺が25で、彼が30の時だった。
当時からいわゆる「夜遊び」に耽っていた俺が彼に会ったのは、最初は店員として働いている祖母の喫茶店。
客としてふらりとやってきた彼は一目見て分かるほどにズタボロだった。……見た目でなく『心』が、思わず二度見した。
まあ、俺でなくてもなんか元気が無いとは思うだろう。祖母ちゃんもなんとなく察して、何くれと初見の客だが世話を焼いて居たのを覚えている。
「ほい、ハーブティお待ちどうさま。」
「……ありがとう。」
そんなやりとりをした次に出会ったのは、その日の夜……まあ、有体に言うと「発展場」としてそれなりにお仲間同士では知れている夜の公園をぶらりと散歩していたのだが、そこに彼は居た。
ぼんやりと、ベンチに腰掛けて街灯の明かりを眺めている彼を見付けた時は、正直ちょっと驚いた。と同時に心配になった。あれは良くない、昼間のようにズタボロのままなら、悪いものを引き寄せる。
ちょうど、下心丸出しで彼に声をかけようと近付いてくる気配があったので、先んじて声を投げると、彼はこちらを向いて少しばかり、目を見開いた。
「ごきげんよう、お昼ぶり?」
「え?あ……君は、昼間の?」
「そそ、喫茶店の店員ですよ、っと……ここ、知る人は知るアブない場所なんだけど、分かって……は、いそうだぁね。」
「あぁ、その……少し、独りで寝るのが寂しくて……ね。」
「ふむ……でも、実際『寝る』のは怖い、って感じか?」
「え、っ!?」
膝に落ちた視線が、俺のかけた言葉でガバッ、と驚いたようにこちらを向く。どうして分かった、と言わんばかりの顔だ。
「何、で……。」
「きっとお兄さんが分かり易いだけだぁね。……まあだからさ、俺も独り寝は寂しいのよ、今晩付き合ってくれねぇかい?」
「いや、でも……。」
「なぁに、俺も気が変わってね……添い寝だけで構わねぇさ。」
ほんとを言うと物足りないが、まあそこは言わぬが華、だ。俺だってまあ、そこまで飢えては居ない……今のところは、まだ。
いぶかしむように俺を見る彼に……なんだか、暴力を受けて人間不信になった野良犬、あるいは羽が傷ついて飛べなくなって辺りを警戒している鳥を構っているような錯覚を覚える。
「……わかった、君がそこまで言うなら。」
「よしきた。まあ場所は適当にホテルでいいとして……そういやお兄さん、名前は?」
「……陽。藤井 陽だ。」
「あきら、か。 俺は神代 裕二、それじゃあまあ……よろしく?」
そんな一晩から、自然と俺達の「お付き合い」は始まった。
最初の数ヶ月は本当に添い寝だけで過ごした。眠れない日にふらりとやってくる彼がうなされ、しがみ付いてくるとその髪を梳き、背中を撫でるようにして一緒にまどろむと、彼は安心したように寝息を立てた。
半年を過ぎて、どちらともなく肌にじゃれるように触れ合うようになり、一年を過ぎた頃に彼から求められて体を重ねた。
その頃から俺を「子リスちゃん」なぞと気障ったらしく呼ぶようになったので小突いてやったが、一向に辞めないので諦めた。
「子リスちゃんは不思議だな。まるで魔法使いみたいだ。」
「また気障ったらしいことを仰る。それに陽、俺は魔法使いじゃねぇよ。」
「いやまあそうだろうけど。」
「どっちかっつーと魔女の端くれだ。」
「……魔女(witch)?」
「魔女(witch)。」
「……じゃあ、カラスとネコを飼っている君のお祖母さんは。」
「師匠だけど?」
「……なるほど。」
今は親戚の神社に住んでいて意外と信心深い彼は納得するのが早かった。素直なのは良いことだ。
しかし……男なのに魔女?と、心を読むまでもなく表情が語っていた。いいだろ、ほっとけ。
そんな「付き合って欲しい」とどちらが言った訳でもなく、ただただ寄り添うように一緒になったあの頃の俺達は一般的な「恋人」では無かったと思う。
喧嘩等を通じて価値観の差をぶつけ合って埋めようとすることもなく、俺はただ彼の望む時に、望むように彼と共に居た。少なくとも俺にはそれが出来たからだ。
その時の俺は、例えるなら彼にとって「止まり木」や「鳥篭」のようなものだった。傷ついた彼が癒えるまで、安全に休める場所……事実そんな感じだっただろう。
真綿や羽毛で包むように、ただただ安穏と穏やかに、引き裂かれた心の傷に悪夢が巣食わぬよう、上っ面にでも塞がるまで……あの時の彼には、それが必要だった。
もちろん、俺だけが彼の癒しというわけでもなかったろう。一緒にすごす彼からは、親の話は全くといって良い程出なかったが、親戚の神社にお世話になっていて、そこに居る双子のような甥と姪(正確には従姉妹の子らしい)の話は良く出てきた。
別れるまでにはデートもセックスも何度もしたし、俺たちは互いを大事にしてきたと思うが……彼も、なんとなく理解していたのだろう。彼は何時かここから離れ、俺はそれを止めないのだと。
だから彼は俺が夜遊びを辞めないの事に、自分が居るのにと拗ねたりはするが本気で咎める事はしなかったし、彼と体を重ねるようになった頃から少しずつアメリカと日本を行き来しだすのを俺も止めるなんてことはしなかった。
引き止める努力をしていない、と言う奴も居るかもしれないが、そもそも必要ない事をする気はなかった。だって彼の心は、彼の魂はずっと海を越えた彼の地に、傷つきながらも惹かれていたのだから。
そして途切れ途切れにでも2年を共にすごして3年目に差し掛かかったかな、といった頃……彼がそっと話を切り出した。
ちょうど俺が作ったクッキーと、俺が淹れたハーブティを二人でお腹に片づけた後……腹ごなしの散歩にでも誘うようなタイミングで。
「裕二、俺……アメリカに戻ろうと思う。」
「ん……そっか。……もう、大丈夫なのかい?」
そう聞きはしたけども、俺は半ば確信していた。だって彼は言ったのだから、「行く」ではなく「戻る」と。
そして、彼は俺が思った通りの言葉を返した。
「あぁ。……裕二、ありがとう。」
「俺は一緒に居ただけだがね。……まあ、どういたしまして。」
「君が居なかったら、俺はあのまま駄目になってたかもしれない……だから、君のおかげだ。俺の子リスちゃん。」
「俺の、じゃもうなくなるだろ?」
「ははっ、手厳しいな……来週、アメリカに発つつもりだ。」
「そっか、元気でやれよ?」
「あぁ……さようなら、ユージ。」
まるで意識してイントネーションを変えたように俺を呼ぶ彼に、俺はあぁ……と納得の声が出た。彼に必要だったのは、これだったのか。
「藤井 陽」から「フジイ アキラ」へ……傷ついた心と体を溶かすように見詰めなおして、彼の望む形になるまでの「繭」……きっとそれが俺だったのだろう。
そこまで考えて、俺の言葉も十分に気障ったらしいなと今更ながら気付いたが、まあ俺は彼のように外におおっぴろげに出す訳でもないし、旧い魔女の言葉が詩的でないはずもない……と思う事にした。
あの時の彼を鳥と表現すべきか、蝶と表現すべきかは正直今でも決めかねている。まあそもアイツはそんな華やかでもないし、本当は虫でも鳥でもなく人なのだから。
「ん……さようなら、アキラ。」
申し訳なさそうな顔でこちらを見るものだから、俺も意識して呼ぶ声音を変えてやると、驚いたように目を見開いてから、彼は……フジイ アキラは嬉しそうに口元を綻ばせた。
そうして、触れるだけの軽いキスを交わした俺達の『関係』は、あっさりとそこで切れた。一緒にアメリカに来てくれだの、行かないで欲しいだの、そんな柵になるような言葉はお互いに一言も無かった。
薄情、というのとは少し違ったと思う。ただ、今の俺達はそうした方が良いと……お互いに留まる気もついていく気も無いと理解していただけ。
鍵の開いた鳥篭から、または内から開かれた繭から、怪我が癒えた彼が自分の本当の番と巣を求めて飛び出した……これはそれだけの話だ。
===================
「ぃ……ぉい、おいユージ!」
「……んぉ、どうした?」
「煙草、灰落ちるぞ。」
「おおっと、さんきゅ。」
火をつけたまま、一口吸っただけでぼんやりと物思いに耽っていたせいで、じりじりと燃え続けていた煙草が、今にも落ちそうになっていて慌てて灰皿に落とす。
ちょっともったいない事をした、とみみっちぃことを考えながらも煙草を咥え直すと、つむじの辺りに視線が刺さるのでそっと見上げる。
案の定、倫三が何か言いたげに俺を見下ろしていた。
「……何考えてたんだよ。」
「探偵なんだったら、推理してみたらどうだ?Mr.サイモン?」
他の奴から倫三と呼ばれるのを嫌がるのに、何故か俺が彼の望む呼び方をしてやると、キュッと不機嫌そうに眉根を寄せた。
「……さっき電話してた元彼とやらの事か?」
「おぉ、正解。ちょっと出会った時と、別れた時の事をなー。」
「なんだよ、やっぱ未練あるんじゃねぇか?」
「いんや、全然?まあ戻ってくるなら両手を広げて歓迎してやるけど……だってほら。」
ふっ、と紫煙を吐き出すと、もう根元まできていた煙草の火をジュ、と灰皿に押し付ける。
「自分で外に飛び出して、番を見つけて巣を作った鳥が、鳥篭に戻ってくるこたぁねぇだろう?」
<栗鼠の鳥篭、あるいは魔女の繭玉 END>
い~ぐる
2017-11-29 08:50:42